2023/08/24、ADARジャパンがZoom開催した、第3回ウクライナ報告会に参加しました。
8/24はウクライナの独立記念日ということで、とても大事な日に開催されました。
注:以下の、「ADRAからの報告」と「キーウからスロバキアのケシュマロクという町に避難されているトーニャさんのお話」はこの報告会の内容を書きおこしたものです。必ずしも語り手の方が話されたとおりの言葉ではなく、すべてが網羅されているわけでもありません。トーニャさんは英語で話され、ADRAの日本人スタッフの方が日本語に通訳されました。英語で聞き取った内容と日本語通訳から聞き取った内容が一緒なっており、更に個人的な理解も混じりこんでいます。これらの点をご留意いただけると幸いです。
ADRAからの報告
ADRAは米国メリーランド州に本部があり、世界各国に120余りの支部のある、キリスト教系の国際的な組織です。
ロシアによるウクライナ侵略が始まると、世界のADRAが連携し、オンライン会議を開催し、その対応について話し合いました。
ADRAの支援は主にウクライナの周辺国である、スロバキア、チェコ、ルーマニアなどから行われています。
ウクライナ国内には、元々ADRAのウクライナ支部のボランティアだった方々がおり、その方々が引き続きボランティアとして活動されているそうです。ウクライナ国内にADRAスタッフがいなくても、ボランティアさんが活動してくれています。
これまでADRAからウクライナへ約25億円の支援が行われ、その内容は、現金給付:40%、食料等:13%、心的サポート:9%、医療支援:6%等となっています。
へルソン州のダム決壊後は、その被害への支援も行っています。37集落が浸水し、全壊・半壊の家屋が多数あり、約17,000人が避難されているそうです。
ダムの水は周辺住民の飲み水だったので、まずは飲料水を届けること、さらに住宅の再建・家具の支援、また冬に向けて越冬をどうするか検討されています。
80万人のウクライナ避難民の方々は周辺国へ避難しています。周辺国へ避難された方の避難生活が長期化するに伴い、住宅の確保、就労支援、子供の教育をどうするか、などの問題が出てきています。
ADRAはお金、物資、就労教育、インテグレーション、心のケアなどの面からサポートしています。お金は個人別に面接を行い、必要に応じて給付されています。主に家賃や薬代などに使われているそうです。
物資は、シェルターなどで生活されている方へ食料やその他必要物資を支給しています。
情報提供も大切で、支援センターで就労や法律上のアドバイスが行われています。
ADRAチャリティーショップを設置している町もあり、避難民の中には、そこで働いている方もいます。
心のケアのために、子供や成人に対して、そのトラウマ等に対してのカウンセリング活動を行っています。
キーウからスロバキアのケシュマロクという町に避難されているトーニャさんのお話
今回は、スロバキアに避難されているトーニャさん(以下、トーニャ)という女性が実際の経験を直接話してくださいました。
トーニャはウクライナではテレビの編集者として働いていましたが、ケシュマロクでは避難民支援センターで働いています。ケシュマロクは山間の小さい美しい、でも貧しい町です。
トーニャの一家は車でキーウから、ケシュマロクまでやってきました。両親、トーニャ、子供たち、2匹の犬たちがそのメンバーです。
ケシュマロクまでやってくる途中で撃たれた車、爆破された家、その他、子供たちはもちろん、大人にとっても見る必要のない様々な光景を目にしました。
トーニャの夫は国境まで一緒に来て、近くで一晩泊まれる場所を探しました。それがケシュマロクでした。
その時に一晩泊まった宿で、数カ月無料で泊まれる場所を探してくれました。本当にありがたかったです。
これまで3か所の場所を転々としましたが、犬が一緒なので泊まれるところを探すのは難しいです。息子は新しい住まいに移ると、まず隠れることができる場所を探します。隠れるところが無いと、とても不安な気持ちになります。
夫はウクライナに残り、両親はショックが大き過ぎて考える力を失ってしまったので、トーニャは家族のリーダーにならなければいけませんでした。それはとても大きなストレスになりました。
両親はソビエト連邦時代に育った人たちなので、彼らの心の中ではロシアを敵として考えることはとても難しいことでした。
ロシアがキーウに爆弾を落とした時、一時的ではありましたが、両親は子供のようになってしまいました。トーニャ、どうすればいいの?何を食べればいいの?どこにいけばいいの?
ケシュマロクでは、両親も含めて、助けを求めている避難民の人がたくさんいましたから、どうやったら彼らをサポートできるか考えました。
まずテレグラムというチャットアプリに登録しました。ナタリアさんというウクライナ女性が情報交換チャンネルを立ち上げていました。通りなどでウクライナ語を話している人たちに、この情報交換チャンネルに登録するように勧めてまわりました。
ケシュマロク市は空いている場所で避難民支援センターを始めることになり、トーニャに声をかけてくれました。
支援センターに行ってみると、完全に空っぽのスペースで何もありませんでした。そこでトーニャはメンバーを集め、チームを作り、支援をスタートさせました。
まず、ボランティアメンバーがわずかばかりのお金を出し合って、ウクライナ語で書かれている本を集めて、子供たちのために図書館を作りました。食べ物よりも先に本(図書館)が先にきたわけです。
スロバキアの方たちがナタリアさんのネットワークを通じて物資を持ってきてくれました。
当初から支援センターは、物質的なサポートだけではなく、精神的なサポートを行える場所を目指しました。心のサポートを行うことで、センターに来る人達に自尊心を取り戻して欲しかったのです。
しかしスロバキアでは(もしかすると他の地域でも)、政府やNGOによって開設された避難民支援センターは閉鎖され始めています。ケシュマロクでもセンター閉鎖の危機があり、開設したNGOによって一旦は閉鎖されてしまいました。
それまでセンターを利用していた人たちは、食料等は他の施設からでも支援を受けることはできますが、支援センターがなくなったことで、心の拠り所を無くしてしまいました。
人間にとって、他の人と会って、話が出来て、自分が1人の人間であると感じられる場所があることは、とても大切なことです。
人間にとって、コミュニケーションできる場所は必要です。子供たちが友達を作れる場所は大切です。
子供は花のようなものです。育っていた土から引っこ抜かれて、他の砂地に移し変えられたら、ちゃんと育つでしょうか?
みんなは避難民支援センターの再開を市長さんに働きかけました。ADRAも支援してくれて、働きかけが実って、1か月後に市長さんが新しい場所に避難民支援センターを開設してくれました。
ウクライナ避難民はウクライナで生活していた時よりも、大変な生活条件での生活を余儀なくされています。
大学教授などの専門的な職業に就いていた人たちも、ホテルとか、全く違う職場で働かなくてはいけません。小さいアパートに複数名で住み、不慣れな環境は大人にとっても大変です。
子供たちは言葉も違う、友達もいない、時には学校で嫌がらせを受けることもあります。
ほとんどの子供のお父さんは戦争に行っています。10代のティーンエイジャーたちは孤立して、タブレットの画面を見ながら、引きこもっています。
小さい子供たちは、本当は周囲から注目され、遊んでもらうことを必要としています。でも、お母さんたちは1日中働かなくては生きていけません。
イゴール君という8歳の少年の話をします。
センターが閉鎖されていた1カ月の間、イゴール君は毎日、閉まっているセンターにやってきました。再開されないかな、と願っていました。
毎日センターを訪れていたイゴール君は、ある日、センターのドアを叩き始めました。
もしあなたが8歳で、家と呼べる場所がなくなってしまい、仮住まいに住んでいて、周り中見知らぬひとばかりで、将来どうなるかも分からない環境に置かれたらどう思いますか?
遊んでくれる人がいて、同じウクライナ語を話す人がいて、友達がいる場所があったのに、その場所が突然閉鎖されてしまったら、どんな気持ちになりますか?
人間にとって、水、空気、食べ物は必要ですが、同じようにコミュニケーションできる、ということも必要です。
私たちはどうにかここまでやってきました。ADRAも含めていろいろな機関がお金の面でもサポートしてくれました。
参加して感じたこと
実際にZoomで、トーニャさんの顔を見て、彼女の話を聞いて、ウクライナの人たちの生活が少しではあるが、伝わってきた気がした。
もちろん体験していない人間には、本当のところが分かるはずもないが、トーニャさんの具体的な体験を直接聞くことによって、報道番組等のメディアで伝えられるよりも、より実感として感じられた。
私たち日本人も、いつ同じように避難民になるかもしれない。住み慣れた我が家を追われて、言葉の分からない異国に逃げていかざるえないことだってあり得る。
その時、私たちはトーニャさんのように勇敢に現実に立ち向かえるだろうか。報道番組を見ていると、日本が侵略されたら、日本人はウクライナ人のように勇敢に敵と戦えるだろうか、といつも思う。