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『エミール』を読んで孫育て

NHKテキスト100分de名著、ルソー「エミール」を読んでのまとめ&これから孫を育てる(成長を手助けする)ためのヒントです。ジャン=ジャック・ルソーは18世紀のフランスで活躍した思想家ですが、その考え方は現代にも通じるものがあると思います。

1.自然は教育の原点である

      「エミール」
第1編 乳幼児期
第2編 児童期・少年前期 1~12歳
第3編 少年後期 12~15歳
第4編 思春期・青年期 15~20歳
第5編 青年期最後の時期 20歳以降

現代においては、子供には様々な発達段階があり、各々の時期でふさわしい教育がある事は皆しっていることですが、昔のフランスでは子供は「小さい大人」と考えられていました。

そのため、子供に古典を暗唱させるといった類のことが優れた教育と考えられていました。

ルソーは3種類の先生による3つの教育を教育の根幹と考えていました。その3つとは、①自然の教育、②人間の教育、③事物の教育、です。

①自然の教育:「自然」とは、人間の中にある、うちなる自然を言います。子供が自由に手や足を動かせるようになるのは、人間にうちなる自然が備わっているからです。

②人間の教育:親や先生による、いわゆる普通、一般に考えられている教育です。

③事物の教育:子供が現実世界の中で。様々なモノやコトに出会うという経験から学び取っていくことです。

自然人と社会人の対立を克服する

ルソーがエミールで描こうとした教育の最終的な目標は、自然人と社会人を対立させることなく、両者が共存していく世界のありかたです。

自然人として自分のために生きようとすれば、目的は自分自身(の幸福)であるため社会の中で他者に貢献することは目的の主眼ではありません。

社会人として他者のために生きようとすれば、自分自身を捨てなくてはいけないかもしれず、自分の幸福追求を犠牲しなくてはいけないことも生じます。

エミールでは15歳までは子供を徹底的に自分のために生きる人間として教育します。

そのためには、他者との競争や、他者から褒められるために頑張ると言う、他者との関わりによる動機を完璧に排除するような環境を設定しています。

最初に、『自分自身のために生きる』という大きな柱を作った上で、15歳以降は他者との関わりである、思いやりや共感能力を育成していきます。

人間の不平等の起源は農業にある

人間は身分などに関係なく、みな平等であり、どんな人間でも、他者の「生命、健康、自由及び平等」を奪ってはならない。それは人が生まれながらにして神から与えられた自然権である。(ジョン・ロック)

このロックの自然権の思想が、その後、人権、基本的人権と言われるものへと発展していきます。

自然の発達に従う 第1編 乳幼児期

母親が、母乳を与え、赤ちゃんを愛情の中で育てることは大切で、父親も育児に協力することで、夫婦のきずなも深くなり、暖かい家庭を築くことができる、という主旨のことをルソーは言っています。

乳児期には、快と不快だけしか感じることができません。

自分以外のものが自分の外に独立して存在することを気がつくまでには時間がかかります。

外界にある自分以外の物を、さわったりいじったり(又は舐めたり、口に入れたり)することが大切なので、危険がない限り、そのような好奇心を抑えてつけてはいけない、と言っています。

ルソーは、その際、あくまで子供の自然の欲求や好奇心によって世話をしてあげることだ、と述べています。

もう1つ注意すべきことは「子供を暴君にしないこと」です。

子供が本来、進むべき発達を遂げていくために、4つの格率(規則)があります。

①の格率:子供本来の力を十分に発揮させること、
②の格率:肉体的・知性的な必要があった時に、育てる者がサポートしてあげる
③の格率:必要なことだけに限ってサポートする。
④の格率:子供を注意深く観察して、直接に自然から生じる欲求とそうではないものを見分けること。

子供が人間としての感覚、感情及び欲求を育てていくためには、「承認と応答の関係」、子供の欲求に対して応えてあげることが必要だということです。

おしっこをしてしまって、不快を感じて泣いていた赤ちゃんは、親が「おむつが冷たいね、取り換えてあがるね。」と適切に対応してあげると、最初は 混沌としていたなんだか分からないけど不快、という状態から、「空腹の不快」と「冷たさの不快」とを区別して捉え、泣き声に違いがでてくるそうです。

虐待されて育った人には感覚の異常がみられることが多く、たとえば、とても寒い日なのにTシャツ1枚で平気な状態、つまりは寒さを感じる感覚が麻痺しているということがあるそうです。

これは子供の感覚は、親が愛情をもって適切に対応する中で少しずつ醸成されていくということを意味しています。

親が子供の感情や欲求をきちんと承認し、お腹が空いた、オムツが気持ち悪い、眠いというような様々な欲求にふさわしい応答をすることで、初めて子供の感情や欲求は育ってくるわけです。

これをモニタリングといいますが、モニタリングがされずに、親の機嫌が不安定だったり、意味もなく突然怒り出したりするようだと、子供は親の機嫌をうかがい、自分の感情や欲求を訴えることが出来なくなります。

自分という存在の主体的な核でもある、感情や欲求が自分で分からなくなり、自覚できなくなってしまいます。

自由な人間になるためには、自分自身の感覚、感情及び欲求を、はっきりと自分のものとして自覚できる必要があります。

2.「好奇心」と「有用性」が人を育てる

事物から学ぶ消極教育 第2編 児童期・少年前期

2編で興味深いのは、現在を無視して、将来のために現在を犠牲にする教育への批判です。

不確実な未来の実現を目指して現在を犠牲にする教育は残酷であり、望ましくないと述べられています。

現代で言えば、例えば嫌がる子供を無理やり受験塾に通わせるような精神的苦痛を味合わせて、無理やりに勉強することを強制したりせずに、子供が興味を持つ分野に時間を使い、今を存分に楽しませ、生きる喜びを味わう経験をさせて、愛情を持って我が子の遊びや活動を少し遠くから黙って見守ることを大切だとしています。

ルソーは、私たちの欲求と能力の間の不均衡があるから、私たちが不幸になる。その能力が欲求と等しい状態にあれば、完全に幸福な者となれる、と言っています。
・人間が他者に依存することで、不自由で無力な人になってしまっている、とルソーは言います。

自然に基づく「事物への依存」は自由を妨げることはないが、人間への依存は、無秩序なものとして、あらゆる悪を生み出し、これによって支配者と奴隷は互いに相手を堕落させる。(ルソー)

それに対抗するためには、支配者としての人間の代わりに法を置いて、一般意思(「一般意志」の説明は後述)に実際的な力を与えることによって、あらゆる個別意志から生じる行為の上の置くことです。

支配者の命令に従うのではなく、自分たちで決めた法に従う法治国家であることこそ自由があります。

彼(家庭教師)はエミールを、使用人に威張り散らし、親や教師のいうことに無条件に従うようには教育せず、支配も服従もすることのない、自由な人間として育てていくのです。

もし子供が実行不可能なことを望んだ場合でも、それは無理だから我慢しなさいと言うのではなく、まずは子供の自由にさせてみて、その結果できないことを学ばせる。

あくまで子供自身に経験させることによって、出来ないことを経験させ、欲望を抑えることを学ばせるのです。

ルソーは子供を不幸にする一番確実な方法は、いつでも何でも手に入れられるようにすることだと言っています。

そうすると子供の欲望は限りなく膨らみ、自分を宇宙の所有者とみなすようになります。

その状態で、誰かに何か拒絶されるとひどく怒る子供となって、みんなの嫌われ者として、不幸になります。

この時期の子供と議論することは、無駄で愚かなことだとルソーは言っています。

子供にはまだ理性的な判断能力が育っていないためです。

急がずゆっくり、子供の発達のペースに合わせて見守っていかなくてはならない、ということです。

感覚と運動の訓練

この時期の教育は、肉体と感覚と運動を育てることが中心です。

それがルソーの「感覚的な理性」を目覚めさせていくことになります。

歩き始めたばかりの子供は猫に似ているので、舐めたり、口に入れたり、触ったりして、子供は色々な物をいじり回します。

泳ぐこと、走る事、飛び跳ねること、コマを回すこと、石を投げること、など機械的な運動によって体を鍛えます。

見守ってくれる家庭教師がいるからこそ、エミールは安心して野原で遊ぶことができます。

これは、自由な活動を可能にするためには、親などの保護者への依存が必要なことを示しています。

人は他者からの承認を必要としますし、それは多くの場合、喜びをもたらします。

他者からの承認は、①無条件で愛される、②自分の活動を評価して褒めてもらう、の2種類があります。

好奇心による研究の時期 第3編 少年後期

ルソーの理想の教育は、書物ではなく、まず経験をすることから学ぶということで一貫しています。

ここでは好奇心を刺激することの大事さを説いています。

好奇心を育むためには、簡単にそれを満たしてやるのではなく、自分で解決させるのがいいと言っています。

すぐに答えを与えてやっては駄目だということです。

好奇心の連鎖によって学ばせることをルソーは推奨しています。

大人は体系的に、論理的なつながりによって知識を得ますが(真理の連鎖)、子供にとっては好奇心の連鎖が大切になります。

現代的にいうと、問題発見・解決型学習ということになります。

有用なものの学習

ここ段階で「有用なもの」という概念が取り入れられます。経験を通して、よりよい生活のために実際に役立つ知識を、積極的に学ばせます。

エミールは人生で初めての本として『ロビンソン・クルーソー』を読みます。

ロビンソン・クルーソーは孤島で自分の知恵と力だけで生きていくという物語ですから、それと同じ孤立した人間の地位に自分を置いて考えてみることで、(生存のために)自分の利益を最大にすることを目標にして自分自身で判断を下すことが大切だとルソーは言います。

有用性を目的とする教育は、世間から評価される偉い人になることではなく、「自分のために」育てられた人間として子供を育てようとするルソーの意図と密接な関係を持っています。

社会関係を知る

第3編の後半では、労働と社会関係についての学習に進みます。

社会はそれぞれが分業することによる、相互依存の関係で成り立っていることを学習させます。

交換がなければ社会は存在できないし、交換尺度がなければ交換は実現できません。平等ということがなければ共通の尺度は存在しません。

だからあらゆる社会には、第一の法則として、あるいは人間における、あるいは事物における、契約によるなんらかの平等がある。(エミール)

これは、事物を交換するための共通の尺度として貨幣が発明され、人間同士が対等な契約を結ぶために、政府や法律というものが創造された、という原則的なことです。

3.「あわれみ」が社会の基盤になる

自己愛と自尊心 第4編 思春期・青年期

私たちは、いわば2回この世に生まれる。1回目は存在するために、2回目は生きるために。はじめは人間に生まれ、次には男性か女性に生まれる。
人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望を持たないこと、そして自分をあまり他者と比べてみないことだ。(エミール)

ルソーは、すべての情念の源であり根本にあるのは、自分に対する愛、「自己愛 アムール・ド・ソア」だといいます。

人はみな自己保存の本能を持っており、そのためには自分を愛さなくてはならない。

そのような観点に立てば、自己愛は常に善いものである、とルソーは言います。

この自己愛が悪い方向に変化すると、「自尊心 アムール・プロプル」になります。

自尊心は、自己が他者と比較してより優れた人間である、より優れた存在でありたいという欲望の事です。

自尊心の中には競争心がありますが、競争心には際限がありません。

さらに面白いのは、「自己愛」こそが、「他者への愛」へとつながっていくということです。

ルソーによれば、そもそも自分への愛があるからこそ、他人を愛することができるのです。

「あわれみ」を人類まで伸ばす

競争的な意識を持つようになる前に、青年の心に人間愛の種子を植え付けることが大切です。

人間愛とは、人間一般に対する「あわれみ」の情であり、他者への共感能力のことを指します。

共感能力を広げる格率3つは以下の通りです。

①の格率:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分を置いて考えることは出来ない。自分よりも哀れな人の地位に自分を置いて考えることができるだけである。

②の格率:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

③の格率:他人の不幸に対して感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

同情は快い。悩んでいる人の地位に自分を置いて、しかもその人のようには自分は苦しんでいないという喜びを感じているからだ。

羨望の念は苦い(中略)自分はそういう地位に置かれていないという恨めしい気持ちを起こさせるからだ。(エミール)

善行は「自分は善いことをしている」と思える自分の喜びの感情に支えられて成立するというのがルソーの発想です。

社会人間~歴史の教育

ルソーは社会秩序について知るためには、社会の中に存在する様々な不平等についても知らなければならないといいます。

家庭教師はエミールに歴史上の人物を通して人の心を見せようとします。

そこで人間の心を深く知るために、個人の伝記を中心に読ませることにします。

歴史が描いているのはその人自身ではなく、むしろその人が来ている服なのだ。(エミール)

神の存在と人間の自由

第1の信仰箇条は、宇宙を動かすものとして根本的な意思である、神の存在です。
第2の信仰箇条は、「神が知性と善性をもつこと」です。
第3の信仰箇条は、「自由意志の存在」です。

人間の本性には2つの根源的なものがあります。1つは、「人間を高め、正義と道徳的な美を愛させるもの」これは良心と理性です。もう1つは「人間を低いところへ連れ戻し、官能と情念に屈服させるもの」です。

ルソーは、精神は自由意志を与えられているので、肉体からくる情念の命令を自分で判断して受け入れることも出来れば、拒絶することも出来、そこに理性が働くと考えます。

第4の信仰箇条は、「魂の不滅」が最後に挙げられます。

ルソーは、人間の良心は理屈抜きに、内から自分に働きかけてくるものだと強調しています。

人生の指針を作り、「不寛容」に反対する

このような宗教論が必要だったのは、生きる意味に答えを与え、また不寛容に反対するためです。

ルソーは、人間は善いことをするために、神によって創られた、と考えました。善いこととは、他人の幸福に寄与すること、です。

人生の中で不遇な状況にあっても、やはり人としてなすべきことをして生きればよい。神様は必ず見ていてくれる。

21世紀に入って、世界では格差や貧困という不平等や、宗教的な不寛容があらためて露呈し、凄惨なテロや紛争が多発しており、ルソーの目指した世界とは異なってしまっています。

4.理想社会のプログラム

第5編 青年期最後の時期

ルソーは「教養ある精神だけが交際を快いものにする」のだから、「考える人々の階級」に属する人と、「考えない階級」に属する人は結婚すべきではない、と述べています。

「考える階級」とは、もっぱら教育をうけたかどうかで決まります。

道徳の最後のレッスン

「わが子よ、勇気がなければ幸福は得られないし、戦いなしには美徳はあり得ない。徳という言葉は力からきている。力はあらゆる美徳のもとになるものだ。」(エミール)

欲望を最高の掟にしてはならず、自分の良心が最高の掟にならなくてはならない、とルソーは言います。

自分がこれから為そうとすることが、これは許されるか(他人を傷つけることにならないか)、またこれは自分を幸福にし、他人をも幸せにするような、積極的な意義のある事か否か、そのつど自問自答することが必要です。

政治の原理を学ぶ 『社会契約論』

「力」は権利や正義の正当性を生み出さない、とルソーは主張しています。

支配-被支配の関係はあくまで相互の力関係によって成立しているので、「支配する権利」に正当性はありません。

相互の力関係ではなく、お互いに約束をし、合意を作る「契約」によってのみ、権利や正義及び法の正当性を生むのです。

一番土台となる約束は「社会契約」で、国家と市民が創造する、社会の根本的な約束です。

あらゆる権利は社会契約によって生じるので、皆が対等に心地よく平和に共存するために必要な限りにおいて、個々人の権利が認められるということになります。

要するに、人々が平和に共存する公共性を、個別の人間のそれぞれの権利に優先させて考えています。

「一般意思」とは何か、民主主義の根本問題

社会契約で成立している国家においては、「人格による支配」ではなく「法による支配」が行われます。

例えば絶対王政のように、王という人間がいて、その命令にみんなが従うと言うのではなく、法というルールの下でみんなが平等に扱われるべきだ、ということです。

一部の人だけではなく、すべての人にとっても利益になるのか否かということを、みんなで議論し、討論しながら法として決定します。

共同の利益であり、「みんなが欲すること」、すなわち「一般意志」だということに合意が得ることができれば、それが法になります。

この考え方のポイントは、法の正当性の根源は「一般意思」であって、「多数決」は正当であることを意味しないということです。

これはまた「一般意思」と「全体意思」とは異なるということを意味しています。

すべての「個別意思」を集計した結果である「全体意思」は、少数派を犠牲にした多数派の意思になってしまうことが多いです。

何より大切なことは、法案が自分を含めてみんなの「一般意思」であるかをきちんと考えて判断し、それを志向するような道徳性を持った市民が居なくてはいけません。

議会で作られた法を個別の事例に適用することは、「行政」(執行機関)に委ねることになります。

国王は行政の長であって、役人の1人にすぎないとルソーは言っています。

現代に「エミール」を生かすために

多くの日本人は1980年代に、自分自身の楽しみを大事に生きることを初めて覚えました。

しかし、それだけでは心が空洞になってしまいます。

誰かのために何かをしてあげて、他人が喜んでくれることが、人間にとって喜びであることを確かめてきました。

しっかりと「自分の軸」をもって生きる時、人は初めて自由だということができます。

いま、「主権者教育」が模索されています。最も大事なことは、自分たちの場所は自分たちで主体的に運営していく、という自治の経験を研鑽することです。

今、学校の教室では、子供たちがお互いの腹の中を探りながら、空気を読むゲームをしていると言われています。

それがストレスになって「引きこもり」になってしまう子がいます。

他の子供たちとそれぞれの思いを出し合い、互いに思いを確かめ合うことで「安心」を作ることができれば、彼らもずっと自由になれると思います。

ヨーロッパの思想家の人間観は、いささか自立と自由に偏っていると感じるところがあります。

むしろ「自由と依存のバランス」の方が、一般的であると思います。

だれにも頼らないという、完全自立型のイメージではなく、他人に適切に依存することによって、人間は自由になり、様々な創造性を発揮することができると思います。

この記事は100分de名著ブックス、ルソー「エミール -自分のために生き、みんなのために生きる-」(西 研氏)をベースに書かれていますが、管理人独自の見解も多く含まれています。