帝国ホテルの歴史
明治維新の混乱も落ち着き、明治政府が、近代国家としての地位を築こうとしていた頃。十分な宿泊施設もなく、これでは、対等な外交関係などつくれない。そんな危機感を抱いた政府や財界人たちは、外交施設「鹿鳴館」の隣にホテル建設を計画しました。そうして誕生したのが「帝国ホテル」です。
国の威信をかけ、外交の拠点のひとつとして活用された帝国ホテルは、「日本の迎賓館」という役割を担い、その歴史を歩み始めました。
欧米との対等な関係を築くために誕生した「日本の迎賓館」
明治維新の混乱も落ち着き、明治政府が、近代国家としての地位を築こうとしていた頃。十分な宿泊施設もなく、これでは、対等な外交関係などつくれない。そんな危機感を抱いた政府や財界人たちは、外交施設「鹿鳴館」の隣にホテル建設を計画。そうして誕生したのが「帝国ホテル」です。国の威信をかけ、外交の拠点のひとつとして活用された帝国ホテルは、「日本の迎賓館」という役割を担い、その歴史を歩み始めました。
(出典:帝国ホテルホームページ『帝国ホテルを知る』)
・明治後期の地図を見ると、碁盤の目になっている部分は現在の銀座で、以前 大名屋敷があったところが、現在の霞が関で官庁街になっています。政治・経済・商業が近い場所に建てられました。
・線路が見えるのは、日本最初の鉄道だった、新橋横浜間を結んで開業した新橋駅です。東京駅が出来たのは大正時代の始め頃なので、この地図には東京駅はありません。
・みゆき通りのあるところは、皇居のお堀がありました。
行幸通りは、大正12年、関東大震災復旧事業によりお濠を埋め立てて造られたものです。その当時、ここが皇居の入口に当たるため、行幸啓の折に、歩哨(ほしょう)が立った所と考えられます。四阿(あずまや)は安山岩造りで銅板葺きの屋根に夜間照明もつけられています。
(出典:一般財団法人国民公園協会 皇居外苑)
・昔は日比谷大明神(今は、移転して東京大明神)があり、日比谷大明神で結婚式を挙げて、お堀を渡って、帝国ホテルで食事をするというのがステータスでした。
・初代帝国ホテルは、ジョサイア・コンドルの弟子であり、ドイツに留学して当時海軍省にいた渡辺譲が設計したそうです。1代目の帝国ホテルは皇居を向いて立っており、客室は60室でした。
2代目帝国ホテル:ライト館
・2代目の帝国ホテルは、本館の老朽化と利用者の増加により新築されました。新館が、フランク・ロイド・ライト(米国人)設計の名高い”ライト館”と呼ばれています。着工は、竣工は1923年(大正12年)になります。
・ライト館はちょうど100年前の9月に取り壊され、その一部、明治村に移築されています。また、ロイド館の壁の一部をホテルのメイン・バー『オールドインペリアルバー』 に移築しています。
・ホテルの中もフランク・ロイド・ライトがデザインしており、それはライト財団からも認められています。メイン・バーの絨毯模様がインペリアル・アローのデザインです。
・フランク・ロイド・ライトはル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれています。
・大谷石(おおやいし)と黄色いレンガが使った。当時は赤いレンガが主流だったが、ライトは黄色いレンガが気に入っていました。大谷石は柔らかいので痛みやすいという欠点があります。
・ライトは常滑(とこなめ)に帝国ホテルレンガ工場を作りました。常滑は焼き物の町だったが、知多半島の土が黄色いレンガに適していました。レンガを焼く、焼きものの技師、INAXの伊奈さんが協力しました。
・マヤ文明を彷彿させ、和のテイストの唐松模様、左右対称で、日本の平等院のように、大きな鳥か翼を広げているような形でした。現在、その模型が帝国ホテル内のインペリアルタイムズに飾られています。
・羽(両翼)の部分が客室になっていて、3階建て。真ん中が宴会場、食事をするところになっていて、この部分は5階建てでした。屋根の上で映画の上映などを行ったそうです。
・ライト館の落成式に関東大震災が起こりました。ホテル自体はほとんど損傷がありませんでしたが、周りの建物は倒れて、火災が発生しました。
・近隣にあった、日比谷大神宮が震災の影響で壊れ、飯田橋のあたりに移転したため、結婚式ができるところが無くなってしまいました。これに対応するため、ホテルの中に神社を建て、結婚式を挙げ、披露宴を行うことができるように、衣装室、美容室、着付けなどを揃えて、ホテルウエディングの先駆けとなりました。
・大谷石を使っているので老朽化が激しく、客室は270室しかないため手狭になりました。
・建て替えを検討した当時、ホテルの周りは建替えられて近代的なビルになっており、帝国ホテルだけが遺跡のようだったそうです。
・しかし、取り壊しにあたっては、2,000通を超える反対の手紙が寄せられました。
・特にライトが米国の建築家だったため、米国からの反対が強く、国際問題にまで発展しかねませんでしたが、当時の総理大臣である佐藤栄作が決断し、一部を残して明治村に移築することで決着しました。
3代目帝国ホテル:現在の帝国ホテル
・現在の本館は3代目で、大阪万博が開催された1970年(昭和45年)に竣工され、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上17階地下3階の規模となります。客室は644。設計は、学士会館などで知られる高橋貞太郎。高橋中期の作品である日本橋高島屋が、百貨店建築として初の重要文化財に指定されています。50年以上前に建てられたので、柱が多くなっています。
・現在の本館は内幸町一丁目街区の再開発によって、2030年に閉館して再建築される計画になっています。完成予定は2036 年、フランス在住の建築家 田根剛氏の設計となります。
・これに先立ってタワー館の建て替えが2024~2030 年度に実施される予定となっています。
ホテルロビー
・ロビーの正面にシャンデリア(制作者 多田美波)があり、ゴールデンローズという名前で呼ばれています。下から見上げると、バラの花のように見えます。
・ロビーに飾られる季節のお花は、冬はバラ、お正月は門松といったように季節で変化しており、写真撮影のホットスポットになっています。
・右奥の壁は、黎明(れいめい)という名前で、通称『光の壁』と言われている。7,000個もガラスを使っていて、ガラスで出来ている。専門の職人さんがメンテナンスしている。こちらも、多田美波氏の作品です。
多田 美波(1924年7月11日 – 2014年3月20日)は、日本の女性彫刻家。
台湾高雄市生まれ。1944年女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科西洋画部卒業。1958年二科展入選、1960年二科展特選。1962年に多田美波研究所を設立し代表に就任。
光の反射を用いた抽象的立体造形作品を制作。アルミニウムを叩き、シワをつけ半球状型に造形した「周波数」シリーズは代表作。昭和期・平成期を代表する立体造形作家である。
皇居新宮殿、帝国ホテル、リーガロイヤルホテル、在米日本国大使公邸(ワシントンD.C.)、外務省飯倉別館(公館)、河内長野市庁舎、などの室内・構内装飾や、壁面作品(レリーフ)を数多く手掛けた他、立体造形作品を制作した。
(出典:ウイキペディア)
ホテルのメイン・バー 『オールドインペリアルバー』 中2階
・格子がテラコッタ(レンガ)で出来ており、こちらもライト館から移設されています。移設された壁の前に置かれている椅子とテーブルはライト館の時代の客室に置かれていたものです。
・バーのお通しは柿ピーと決まっています。お話をうかがって驚きましたが、柿ピーの発祥の地は帝国ホテルだそうです。
・第2次世界大戦後、帝国ホテルはGHQに接取されていたので、外国人が利用していました。当時、ピーナッツ(ナッツ類)は海外のお酒のおつまみとして人気があり、日本では価格が高騰していましたが、どうにか調達しました。海外の方に日本のものを提供しようと、新潟の柿の種と合わせて外国人に出したら、人気となったそうです。
・現在でも、バーカウンターの中にあるステンレスの缶にピーナッツと柿の種が別々に保管されており、バーテンダーが調合しています。
・ホテル100周年を記念して、メイン・バーで『ティンカーベル』というカクテルが作られました。30年前のお値段は900円でしたが、今は3,000円ということです。
・ある日、ティンカーベルの生みの親である、マーク・デイヴィス (ディズニーのアニメーター)がオールドインペリアルバーを訪れて、『ティンカーベル』の名前を聞いてとても喜んだそうです。
・その場でスケッチを描いてくれましたが、米国に戻ってから、カラーの絵を描いて送ってくださったそうです。現在、その絵のレプリカがバーに飾ってあります。本物は資料として大切に保存されているとのこと。ディズニーは著作権の問題があり、帝国ホテルとしてはこの件について宣伝はできないそうです。
マリリン・モンロー
・正面の入り口を入って、左側にインペリアルタイムズがあります。こちらでは、様々な帝国ホテルにまつわる品や歴史が展示されています。
・ライトのデザインの大谷石や黄色いレンガの壁や柱のレプリカが展示されています。
・また、宿泊・利用された多くの有名人の写真が飾ってあります。
・マリリン・モンローとジョーディマジオが新婚旅行で日本に来たときに帝国ホテルに宿泊されたそうです。モンローの有名な、シャネルの5番を着て眠っているという記者会見の場所になったのは帝国ホテルということです。
・女優なので、食べるものにとても気を遣っており、当時の日本には無かった米国の食材も本国から取り寄せしたそうです。その当時は日本にアスパラガスが無く、取り寄せたとのことです。
・料理を担当したのは村上 信夫(むらかみ のぶお 帝国ホテル第11代料理長/初代総料理長)。ムッシュの名前で知られている方です。
・モンローは食事管理で、体調管理をしており、肉は脂分が少ない、子羊の肉を食べたそうです。その影響を受けて、日本で初めてダイエット・ブームが起きました。
エリザベス女王
・エリザベス女王が訪日されたのは、1回だけで国賓として来日されたため迎賓館に宿泊されました。迎賓館は国家機密なので、どなたも生涯に1回しか宿泊できないそうです。
・エリザベス女王は日英協会の招待で、帝国ホテルで行われた午餐会に参加されました。英国は海に囲まれた国なので、女王は魚介類が好きだったそうです。ドーバー海峡では舌平目が美味しいので有名です。
・ムッシュは女王にエビと舌平目のグラタンをお出ししました。レーヌ・エリザベス(フランス語)で名前をいただき、『海老と舌平目のグラタン “エリザベス女王”風』という料理名になりました。
・帝国ホテル内の、フランス料理 ラ ブラスリーで今でもいただくことができます。
フョードル・イワノヴィッチ・シャリアピン
・フョードル・イワノヴィッチ・シャリアピンはロシアのオペラ歌手です。コンサートで来日して、帝国ホテルに宿泊しました。
・肉が大好きでしたが、歯が悪かったので、ステーキを柔らかくしてくれ、と言われて、シャリアピン・ステーキを考案しました。
・シャリアピンのサインの入ったレコードが帝国ホテルに寄贈され、保管されています。
フョードル・イワノヴィッチ・シャリアピン
1873年2月13日生まれ、ロシア帝国カザン出身のオペラ歌手(バス)。本名はフョードル・イワノヴィッチ・シャリアピン。10代で地方の小歌劇団で歌い始め、トビリシ(現ジョージア)で声楽を学ぶ。94年のサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場をはじめ、モスクワのマモントフ私立歌劇場、ボリショイ劇場に出演。代表的な露オペラの主役を演じて、代表的なバス歌手として不動の地位を築く。1901年より海外公演を開始。ミラノ・スカラ座、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場ほかパリ、ロンドンでリサイタルを行なう。ロシア革命後の21年にパリへ亡命。世界各地で公演し、36年には来日も果たす。1938年4月12日にパリで死去。63歳没。
シャリアピンの最も有名な役柄は、『ボリス・ゴドゥノフ』の主役(1929年 – 1931年録音)であるが、 ニコライ・リムスキー=コルサコフの『イワン雷帝』(『プスコフの乙女』の改題)、グノーの『ファウスト』のメフィストフェレス役、ジュール・マスネの『ドン・キショット』なども有名である。
(出典:ウイキペディア&タワーレコードオンライン)
その他の著名人
・ベーブルースはアイスクリームが大好きで、バケツで注文したそうです。
・チャップリンもステーキが大好きで、世界中でステーキを食べ歩いていました。日本の和牛も気に入ったそうですが、当時日本では、ステーキはウエルダンでしっかり焼いていました。チャップリンはミディアムレア等の焼き方も伝授したとのことです。
・アインシュタインは日本に来た時に帝国ホテルに泊まって、客室係にチップを渡そうとした際に、チップはいただけませんと言われて、客室に置いてあったメモ用紙に『幸福論』を書いて、客室係に渡したそうです。これを持っていると幸せになれるお守りだ、と言いました。
・このメモが6年前にドイツで見つかって、オークションにかけられて2億円で落札されたそうです。
初代料理長
・初代の料理長はあまり知られていませんでしたが、そのお孫さんが自宅にあったレシピ本を持ってきてくれたそうです。お名前は、吉川兼吉。宮廷料理人も務めた方です。同じく帝国ホテルの料理人であった子息の吉川林造の両氏が直筆で書き記した帝国ホテルのレシピが展示されています。
・そのレシピは今でも通用するような、レベルの高いものです。
初代料理長 吉川兼吉(よしかわ かねきち)について
横浜グランドホテル、鹿鳴館を経て、1890 年(明治 23 年)に 37 歳で帝国ホテル初代料理長に就任。小島政二郎の小説「風清ク月白シ」のなかで「帝国ホテルが鹿鳴館の隣に建った。帝国ホテルには吉川兼吉というシェフがいて別格」と書かれるほどの高い評価を得、16 年間その腕を振るいました。その後は、宮内省大膳寮、朝鮮李王朝の料理人として活躍しました。
(出典:帝国ホテルホームページ)
日本初のランドリーサービス
・帝国ホテルは海外からのお客さまを迎え入れることが多く、100年前は、船で来日することがほとんどでした。日本に着くまでに2週間から1ヶ月かかっていたため、洗濯物が溜まってしまって困るだろう、ということで、日本で初めてランドリーサービスを始めました。
・日本には外国人の大きな洋服を洗う機械が無かったので、米国から洗濯機を取り寄せたました。
・非常にクオリティが高いランドリーサービスで、キアヌ・リーブスと北野たけしが共演したアメリカ映画『JM』で、泥だらけになったキアヌが「東京の帝国ホテルでクリーニングしたシャツが着たいよ」との台詞があったそうです。
ホテル・アーケード
・昔は、海外からのお客様は2週間~1ヶ月の長い間滞在しました。ホテルの中に居ながらいろいろ出来るように、100年前にホテル・アーケードを作りました。
・骨董店、宝石店、薬品、理髪店、旅行会社、郵便局などが入っていました。現在でも地下にアーケードがあり、当時からのお店が2店舗あるそうです。
・ジュエリーショップの旭商店さんがホームページに帝国ホテルのアーケードで100年近く営業されている、と記載されているので、こちらのお店かもしれませんね。
バイキングレストラン
・ムッシュは65年前、パリのホテルリッツでコックの修行をしていました。新しいレストランを作るので、何か面白い食文化を調べてくれ、と言われたそうです。
・その時に、デンマークのコペンハーゲンで、大きなテーブルに料理を並べて好きなものをとるという、スモーガスボードというものを見て、これが『バイキング』という名前で、ホテル17階のバイキングレストランを作るきっかけとなりました。
スモーガスボード(スウェーデン語: smörgåsbord)は、様々な料理を一つのテーブルに並べてビュッフェ形式で提供するスウェーデン起源のスカンジナヴィア料理である。
「スモーガス」は「パンとバター」の意で、「ボード」は「テーブル」の意である。オープンサンドをそれぞれで作って食べることが由来であるが、17世紀中ごろからは温製料理を提供されるようになり、現在のスタイルになった。スウェーデンではレストランだけではなく、家庭においてお祝いをするときなどもテーブルに料理を数多く並べてスモーガスボード形式を行うこともある。
(出典:ウイキペディア)
フランス料理 ラ ブラスリー オリンピック・メニュー
・ツアーの最後に、本館、地下1階にある、フランス料理 ラ ブラスリーにて、オリンピック・メニューをいただきました。
・メニューの中には、お話をうかがった、エビと海老と舌平目のグラタン “エリザベス女王”風とシャリアピン・ステーキも入っていました。
・ラ ブラスリーのランチメニュー『帝国ホテル伝統のフルコース』(15,000円)には、こちらの2品が含まれています。
・海老と舌平目のグラタン “エリザベス女王”風は、舌平目と、海老、帆立貝、白身魚の身で作ったムースで海老を包み込むように巻いて、グラタンソースをかけて焼いた一品です。
・グラタンとはフランス料理における調理法のひとつで、オーブンなどを使用して、表面を焦がすように仕上げた料理のことです。
・1964年の東京五輪の選手村食堂の内の1つ、「富士食堂」で料理長を務めたのがムッシュだった。選手村全体で約300人の料理人が全国から集められたそうです。
・富士食堂では最大で2万食を用意しなくてはならず、当時日本ではこれほどの量を調理した経験がなかったそうです。
・料理人のレシピは門外不出だったそうですが、大勢の料理人が同じ味を出せるようにと、レシピ集が料理人に配布されたそうです。ホテル側の反対を押し切って、ムッシュのシャリアピン・ステーキのレシピも全国の料理人に配られ、日本中に広まりました。
・また、大量の食材を保存するため、ニチレイの協力により冷凍食品の技術も飛躍的に発展しました。
・そこで出された冷凍食材を使用したメニューは、どれも生鮮食品を使ったものと同じようにおいしいと評判になり、その後、業務用などの冷凍食品の消費は大きく伸びたそうです。
初代総料理長 村上信夫(むらかみ のぶお、1921年5月27日 – 2005年8月2日)
村上信夫は1940年に帝国ホテルに入社。1942年大日本帝国陸軍に入隊。1945年中国で終戦を迎え、シベリア抑留を経て帰国。
1947年帝国ホテルに復職。戦後ヨーロッパに渡り、パリの名門ホテル「ホテル・リッツ」などで修行。帰国後の1964年、東京五輪選手村食堂の料理長の一人としてオリンピックを支えました。1969年に49歳で帝国ホテル第11代料理長に就任し、帝国ホテル大阪開業を2年後に控えた1994年からは総料理長を務めました。
1996年に料理顧問に退いた後も全国の調理師学校をはじめ多くの後進の指導にあたるなど、2005年にその生涯を終えるまで終生現役を貫きフランス料理の普及に努めました。
加えて、1960年から9年間、NHK「きょうの料理」に出演して一般家庭にフランス料理を広めたほか、1964年の東京五輪選手村食堂では全国から集まった料理人に帝国ホテルのレシピを公開し、日本におけるフランス料理の発展に貢献しました。
(出典:帝国ホテル ホームページ、一部ウイキペディアより加筆)