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国立公文書館でお宝を探そう

国立公文書館って何?

国立公文書館ってご存じでしょうか?私も数年前に友人に教えてもらうまで知りませんでした。

国立国会図書館は知っている方も多いと思いますが、国立公文書館はとても地味な存在だと思います。

今回、国立公文書館の見学ツアーに参加しました。一般公開されていない書庫や修復室も見学したのでご紹介したいと思います。

国立公文書館(National Archives of Japan)は、東京メトロの竹橋駅から歩いて約5分、東京国立近代美術館の隣に位置します。

毎年、春と秋には特別展が、その他にも年2~3回の企画展が開催され、入館料はすべて無料です。特別展に合わせて、年1回程度の講演会も行っています。

その目的は、歴史資料として重要な公文書等の適切な保存・利用を図ることであり、内閣府が所管しています。

開館は1971年(昭和46年)、約150万冊の資料を保存しています。100万冊が明治以降の行政機関の文書、50万冊が内閣文庫(江戸幕府、明治政府関連の文書)となります。

1998年 (平成10年)につくば分館を開設し、書庫などを増強しました。2001年(平成13年)からアジア歴史資料センターを開設しました。

公文書の保存は、①受け入れ(行政機関)②くん蒸(約10日)③目録の作成(1年以内)④保存(永久に)という手順になります。その後、デジタル化をしたり、必要に応じて修復したりするということになります。

多くの文書は閲覧、コピーが可能であり、国立公文書館の中に閲覧室があります。

直接閲覧する以外にも、インターネットサービスであるデジタルアーカイブからも閲覧可能です。

地方公共団体等の公文書館もあり、国立では外務省外交史料館など、47都道府県のうち40都道府県(例:東京都公文書館)では公文書館が設置されています。

世界の公文書館は①アメリカ議会図書館、②中国国家図書館、③ドイツ国立図書館④カナダ国立図書館・文書館の順に規模が大きいそうです。

フランス国立中央文書館は1794年の法令で正式に設置が定められ、1789年を境に、革命前の部門と革命後の部門に大別されているそうです。

《常設展示》明治維新以降の日本の歩み

常設展はすべてレプリカが展示されています。見どころの展示はご署名原本(天皇の署名と印)です。

「御署名原本」(ごしょめいげんぽん)とは、憲法、詔書(しょうしょ)、法律、条約、勅令(ちょくれい)などを上諭(じょうゆ:天皇の裁可を示す文章)により公布する際の、御名(ぎょめい:天皇の署名)・御璽(ぎょじ:天皇の印)を付した文書の原本のことをいいます。

【大日本帝国憲法】

中性紙である上質の鳥の子紙を使用しているので、とても綺麗な状態で保存されています。

伊藤博文は枢密院議長であり、本来は署名する立場ではないが、大日本帝国憲法に伊藤の署名があります。

これは伊藤が大日本帝国憲法の制定に非常に尽力したために、天皇の求めによって彼も署名しています。

大隈重信の署名は他の人の署名と比較して震えているように見えます。

普段はあまり自分で筆をとらずに代筆させていたためと考えられています。

文部大臣 森有礼(もり ありのり)は署名した直後に、別の建物に着替えて行って暴漢に襲われて命を落としています。この署名が絶筆となりました。

署名している順番は、役職の重要性ではなく、宮中の席次順であり、位の高い人から順に署名しています。

条文まですべて筆による手書きによって書かれています。

【日本国憲法】

大日本帝国憲法同様に鳥の子紙を使用していますが、終戦直後で物資の不足している時期だったので、紙の品質が悪く、かなり劣化しています。①の大日本帝国憲法よりもむしろ古びた感じに見えます。

条文は手書きではなく活版印刷で書かれています。

御名御璽(ぎょめいぎょじ)は7行使用するとのきまりがあるので、それがページにかからないように字の間隔を調整しています。

そのため、署名の前の文章の文字間隔がやけに空いています。

【終戦の詔書(しゅうせんのしょうしょ)】(S20.08.14)

詔書は何度も書き直されました。その記録は公文書館に収蔵されており、アーカイ「で見ることができます。

どのような経緯を経て修正されていったのかを知ることが歴史認識等において重要だと考えています。

「戰局せんきょく必かならスシモ好轉こうてんセス」のくだりは、元は「戦局は日に日に悪くなる(日々非ニシテ)」との記載だったが、前線で闘っている兵士のことを考えて、清書後に修正を行っています。

本来は、最終的に決まった文章が清書され、署名されるものだが、状況がひっ迫し、差し迫った状況であったため、この文書は、御名御璽(ぎょめいぎょじ)がページにかかってしまっているし、清書後に書き直しされた跡(削ったのでグレーになっている)まであります。一部字も詰まっています。

時間がなかったため、文書校正のように文書を一部、入れた跡もあります。

陸軍大臣 阿南 惟幾(あなみ これちか)と海軍大臣 米内 光政(よない みつまさ)の意見が合わずに、激論がかわされました。

阿南 惟幾は本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、署名した翌日の8月15日に割腹自決しています。

これはいわゆる玉音放送の原稿です。

書庫

書庫には普通、外部の人間は立ち入ることはできません。

所蔵資料を定温(22℃前後)定湿(55%前後)の温湿度管理を行った専用書庫で適切に保存されています。

火事その他の災害を考えて、それぞれの書庫は独立していて(ゾーニング)、各々が防火壁で囲まれています。

例えば、漢文の書物が収められている部屋、洋書が収められている部屋などに分かれています。

書庫に入る時は、ごみ、虫などをもちこまないように、クリーンアップしてからです。見学時も靴カバーを使用しました。

最近の文書はドッチファイルに綴じられて縦置きに並べられていますが、明治の文書などは和綴じで、横に寝かされた状態で保管しています。

和綴じの文書は、当該文書を作成した部署で綴じた部分に所管部署で文章名、年号などを記載しています。右下に、公文書館における管理番号のラベルが貼られています。

公開文書については閲覧請求により、文書の原本をそのまま見ることができます。

書庫の中は古い紙のにおいが充満しており、古書店のような匂いでした。

修復室

文書が劣化する原因 ①虫食い(和紙は虫の大好物)②酸性劣化(昭和時代の紙は酸性紙で脱水作用により劣化してしまう)があります。

修復に用いる材料 ①和紙、②正麩糊(小麦粉からグルテンを取り除いたもの)が主なものです。

修復技法には以下のようなものがあります。

①つくろい:穴のあいたところに一回り大きな和紙をあててつくろう

②裏打ち:後ろから和紙1枚をべたっと貼る(全面補強)。効率的な修復方法だが、箱入り書物の場合、紙が厚くなり箱に入らなくなってしまう場合もあります。

③両面うち:両面から薄い和紙をあてる。酸性劣化などによって、全面に修復が必要な場合に行います。最も薄い和紙(0.02mm)である、典具帖紙*(てんぐちょうし)を用いています。デメリットは紙代が高いことです。

公文書館では現在9名の修復技術者がいます。おのおの、大学院や専門学校等で基本的技術を身につけています。

公文書の修復をするのは、①デジタル化しようとしたときに気づく、②利用請求があったときに気づく などのタイミングです。

東日本大震災で汚泥につかった資料は、公文書館の職員が現地で修復方法を指導し、材料等を提供して、現地のボランティア等が行っています。

「救援マニュアル」等も作成しています。

*土佐典具帖紙は、極めて薄く、かつ強靱な楮(こうぞ)和紙の製作技術である。明治初期に高知県に技術が導入されて発達した。
 仁淀川流域で生産される地元産の良質な楮を原材料とし、消石灰で煮熟(しゃじゅく)(地元では灰煮(はいに)という)した後、小振(こぶり)洗浄、ちり取り等の入念な原料処理を行い、不純物を除去して用いる。極薄の紙であるためわずかな塵の混入も許されず、丁寧な原料処理が行われる。トロロアオイのネリを十分にきかせた流漉(ながしずき)で、抄紙(しょうし)の工程では、渋引きの絹紗を張った竹簀(たけす)及び檜(ひのき)製漆塗の桁を使用し、簀桁(すげた)を激しく揺り動かして素早く漉き、楮の繊維を薄く均一に絡み合わせる。漉き上がった紙は「カゲロウの羽」と称されるほど薄く、繊維が均一に絡み合って美しく、かつ強靱である。その技術は土佐典具帖紙技術者会の技術者により保存されているのみとなり、無形文化財として指定し、保護措置をとっている。(文化庁 文化財オンラインより抜粋)

閲覧室

国立公文書館には毎年、新たに3~4万冊/年の文書が収納されます。現在は約160万冊です。

デジタル化されているのは全体の20%になります。

閲覧室の利用には身分証明書が必要で、利用者IDを発行してもらってから利用できます。

他の国の公文書館、日本の国立国会図書館等には年齢による利用制限があるが、公文書館は珍しく年齢制限がないため、小学生でも利用することができます。

デジタルアーカイブから文書の検索ができ、①公開、②一部公開、③要審査 などの区分があります。

③の要審査の文書は、使用請求してから約1ヶ月待たされます。

江戸時代に幕府の命により、4回(慶長・正保・元禄・天保の4回)各地の絵図(元禄国絵図)が作成されています。そのサイズは5m四方と大きいので、実際の絵図を直接見ることはできません。デジタルアーカイブで細部まで閲覧することができます。

デジタルアーカイブの映像等は著作権の問題なく自由に利用することができます。

デジタルアーカイブはこちらから閲覧できます。

企画展 衛生のはじまり、明治政府とコレラのたたかい

虎列剌病流行紀事(明治12年のコレラ流行)

現代は『衛生』という言葉はよく聞きますが、公衆衛生は日本ではいつから始まったのでしょうか。

日本にコレラ(伝染病)が初めて上陸したのは1822年の江戸時代の後期です。

人間は知らない病気はめちゃくちゃ怖い。新型コロナウイルスも、最初は何も分からなかったのでとても怖いと思う人が多かった、という経験をしました。

コレラ菌は水や食べ物から感染し、脱水症状を起こし、早い時は1~3日の間に死亡しました。

19世紀は、なんだかよく分からない、すぐ死んでしまう怖い病気というイメージでした。

岩倉使節団の主な目的は外交でしたが、日本政府は海外からの知識を得るために、各省から担当者が随行して、各々の専門分野について調査すると言う目的も担っていました。

文部省から長与 専斎(ながよ せんさい)が医学教育を目的として公衆衛生を学ぶために使節団に加わりました。

帰国後、当時は厚生労働省の組織はなかったので、文部省の中に衛生のための組織を作りました。

これがやがて、内務省衛生局となりました。

日本でコレラが大きく流行ったのは西南戦争の時。西南戦争の際に、外国から長崎港に持ち込まれたコレラ菌を従軍した全国の兵士が各々の国に持ち帰ってしまいコレラは感染力が強いため、全国に広まりました。

伝染病等に対応するためには流行る前に対応を決めおかなくてはいけません。

最近のコロナウイルスの流行に対する政府の対応は後手後手に回っており、当時の明治政府の方が利口だったのかもしません。

政府は明治12年に急いで コレラ予防規則を作り、その後、コレラが少し落ち着いて明治13年に伝染病予防規則を作りました。

寺社で説法の中で広めてもらうために「虎列刺予防の諭解(さとし)」を作成して、寺社に配りました。

コレラ菌を死滅させるためには、水道水を綺麗にする必要があります。明治23年の水道条例で金属製の水道管が導入されました。

それ以前の江戸時代から水道管自体はありましたが、木や竹で作られていたため、コレラ菌等を死滅させることができませんでした。

明治30年に伝染病予防法が作られ、平成10年まで使われました。

今猿婆
今猿婆
国立公文書館どう?面白そうだと思わない?

カウコウクン
カウコウクン
常設展は興味深いね。今度、今猿婆と一緒に行ってみようかな。ところで猫OKなの?