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哲学は分かり難い

スピノザを知って楽しく生きる!

NHKテキスト100分de名著、スピノザ「エチカ」を読んでのまとめ&これからもっと楽しく生きるためのヒントです。スピノザで素敵な人生を見つけてください。

無知で隷属しているなら、そんな世界から抜け出そう

無知者は、外部の諸要因から様々な仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、その上自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることやめるや否や同時に存在することをもやめる。(第5部定理42備考)

「なぜ民衆はこんなにも頑固で理を悟ることができないのだろう。なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう。なぜ人々は隷属こそが自由であるかのように自身の隷属をもとめて闘うのだろう。なぜ自由を単に勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほど難しいのだろう」(スピノザ)

今でも、インターネット上で誰かが「炎上」すると、その人を全く知らない有象無象が、我先にと批判を始めます。

スピノザもまた、彼の思想に触れたことも無ければ、彼の著作を読んだこともない人々によって批判されたのです。

汎神論とは神と自然の同一視

スピノザの哲学は「神は無限である」という考え方を出発点にしています。

したがって、無限である神には外部がありません。すべては神の中にあり、神はすべてを包む、宇宙空間のような存在として認識されています。

スピノザは神と自然を同一視しており、これを「神即自然」といいます。

神(自然)には外部がなく、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にあるすべての物は自然の法則に従っているのだから、超自然の奇跡などは起こりえません。

スピノザの「神即自然」の考え方は自然科学的であり、宇宙空間のように無限に広がっているものを神と呼びます。

善い組み合わせの中で生きる

我々は我々の存在の維持に役に立ちあるいは妨げるもの(…)言い換えれば(…)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。(第4部定理8証明)

あるものを不完全と判断するのは、単に、人間がその個体はこうあるべきだという一般概念と比較しているからです。

例えば、角が1本しかないヤギを不完全と思うのは、その人がヤギは2本の角を持たなくてはいけないという思い込み(偏見)を持っているからです。

スピノザは、すべての個体はそれぞれに完全なのだと言います。

自然界に完全、不完全の区別が存在しないように、それ自体が善いもの、悪いものは存在しないと、スピノザは言っています。

例えば、人間がトリカブトを食べると、けいれんを起こしたり、嘔吐したりするので毒であるとされています。すなわち悪いものです。

それは人間がトリカブトを食べる、という組み合わせが悪いだけです。

トリカブトの球根を乾燥させたもの附子(ぶし)といい、漢方薬の生薬として使われます。この場合は善い組み合わせになります。

すべては組み合わせで考えればよく、善い組み合わせと悪い組み合わせがあるだけです。

同じ人間とトリカブトの組み合わせでも、善い組み合わせにも悪い組み合わせにもなります。

既存の道徳は絶対的な価値を全員に強制します。そこでは個々人の差は問題にはならないのです。

スピノザ的な倫理では、あくまで組み合わせの善し悪しを考え、個々人の差を考慮にいれます。

この人にとっては善くても、あの人にとっては善くない、といったように個別具体的に考えるわけです。

そのため、スピノザの倫理学は実験してみて、どれとどれが上手い組み合わせになるか試行錯誤します。

例えば、あなたに嫌いな人がいた場合、あなたとその人は組み合わせが悪いだけだ、と思うととても気持ちが楽になりませんか?

スピノザによれば感情は「喜び」と「悲しみ」の2つの方向性を持っています。

スピノザ的には、より大なる完全性に移る際には、我々は深い喜びの感情に満たされます。

その分析で、面白いのは「ねたみ」の感情です。

自分と同じと思っていた同級生が教師に褒められたり、よい成績をとったり、高い運動能力があったりすると、私たちはねたみの感情に襲われます。

スピノザによれば、ねたみは憎しみそのものであり、したがって悲しみの感情です。

そうやってねたんでいる時、私たちはより小さな完全性へと向かい、活動能力を低下させてしまいます。

人をねたんで、黒い心を増殖している時には、私たちはより小さく、卑しい人間になっているのです。

コナトゥス(各個体が持っている力が本質)をみつけよう

おのおのの物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はそのものの現実的本質にほかならない。(第3部定理7)

スピノザの有名な概念の1つが「コナトゥス」(ラテン語)です。自分の恒常性を維持しようとする傾向を持った力のことです。

古代ギリシャの哲学は、本質は「形」であると考えていました。ギリシャ語で「エイドス」と呼ばれるものです。

これは見るという動詞から来ている単語で「見かけ」や「外見」を意味しており、物の本質はその物の「形」です。

エイドス的な考え方は、道徳判断とも結びついており、人間の男性と女性をエイドスとしてとらえると、すべての女性は女性を本質とする存在ということになります。

「あなたの本質は女性なのだから、女性らしくありなさい」という結論になります。

これに対してスピノザは、物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。

その人の活動能力を高めるためには、その人の力の性質が最も大事ということです。

人生を豊かにして、あなたも賢者に

人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。(…)これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。(第4部定理38)

世の中には多くの刺激があり、人間はその刺激の中で生きています。

しかし私たちはその刺激の中からほんのわずかなものだけを受け取ることができます。

人が反応できる刺激の量は限られていますが、多くの刺激に反応できるようになれば、それは必ずやその人の人生を豊かにしてくれるといえるでしょう。

例えば、これまで絵を描かなかった人が、新たに絵を描くようになったら、風景を見た時にどんな風に絵に描けるかな、と考えるでしょう。世界はこれまでと違って見えるのではないでしょうか。

これまで受け取ってこなかった刺激を受け取ることが出来るようになったからです。

スピノザの「刺激されうる状態にさせるもの」と言っているのは、受け取れる刺激の幅を大きくしてくれるものです。

例えば、精神的な余裕が生まれたこと、新しいことを学ぶなどです。

スピノザはこれを有益と言っていて、考えてみれば当たり前のことですが、とても大切だと思います。

もろもろの物を利用してそれをできるだけ楽しむ(…)ことは賢者にふさわしい。たしかに、程よくとられた味の良い食物及び飲料によって、更にまた芳香、緑成す植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人利用し得るこの種の事項によって、自らを爽快に元気づけることは、賢者にふさわしいのである。(第4部定理45)

笑いやユーモアは純然たる喜びであり、そうした喜びに満ち足りた暮らしこそ最上の生活法だとも述べられています。

そのような生活法をおくっている人こそが賢者です。賢者とは楽しみを知る人、いろいろな物ごとを楽しめる豊かな心をもった人のことです。

人生を楽しんでいるあなたも賢者なのです。

人間は神の1形態であり、固有の本質を持っています

なぜなら、個物は神の属性である一定の仕方で表現する様態である(…)言いかえればそれは(…)神が存在し・活動する神の能力である一定の仕方で表現する物である。(第3部定理6証明)

私たちは神の中にいるだけではなく、私たちは神の一部で、万物は神なのです。神は自然でありかつ、「実体」です。

スピノザが神は実体であるという場合、神だけが実際に存在しているということです。

私たちは神という実体の「変状」であるというのがスピノザの考え方です。神の一部が、一定の形態と性質を帯びて現れるのが個物です。

それぞれの様態は個物としての本質があり、神であるわけではなく、本質を持っています。

スピノザの属性概念は、デカルトの「心身二元論」への批判として捉えることができます。デカルトは精神と身体を分けて、精神が身体をコントロールしていると考えました。

スピノザは、そもそも精神と身体をそのように分けることはできないと考えました。精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。これが「心身平行論」です。

コナトゥスが上手く働き、自由で理想の社会へ

スピノザの考えるコナトゥスは自分の存在に固執する力ですが、他人を犠牲にして自己を維持するという意味ではありません。

コミュニティがうまく機能している時、人々はうまく組み合って互いの力を高めます。それはスピノザ的に言って善いことに他なりません。

例えば、数名が参加したプロジェクトで大成功した経験はありませんか?これは集まった人たちの組み合わせが善く、互いに相乗効果を発揮できた成果だと思われます。

エチカでは、人はコナトゥスが上手く働いて生きている時、自由です。

前述の大成功したプロジェクトでは、参加者のコナトゥスが上手く働き、自由であったわけです。

自由な人たちは、互いに感謝の心をもち、偽りの行動を避けて常に相互に信義を抱き、国家の制定した法律を守ることを望みます。

一人一人が自由に生きられる社会は安定した、理想的な社会となります。

人々が一緒に協力し合いながら安定した生活を営むには、お互いのコナトゥスを大切にすることが必要です。

スピノザは、「神学・政治論」で社会契約説的な発想を論じています。毎日、他人に害を及ぼさず、他人の権利を尊重しながら生活することこそが契約だというのです。

1つの国家の中で互いに尊重しあって生活していくことによって、契約は毎日更新され、確認される。スピノザは反復的契約説です。

集団の中で生きることで、自分の権利が制約を受けることはあります。でも、人間は一人では生きられないし、集団で存在し互いに善い組み合わせを築くことで相互に高め合うことができます。

スピノザは、個人の権利が蹂躙され、コナトゥスが踏みにじられるような国家は長続きしないと考えます。

「自由」とは何か

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されたと言われる。(第1部定義7)

エチカの目指す最終目標は「人間の自由」です。

与えられている条件の下で、その条件に従って、自分の力をうまく発揮できることがスピノザの考える自由です。

自らの必然性によって存在したり、行為したりする時にこそ、その人は自由です。

その人の身体や精神の必然性は本人にも最初は分からないので、実験しながら学んでいく必要があります。ですから、人は生まれながらにして自由であるわけではありません。人は自らを自由にするのです。

自由の反対の概念は強制です。強制とは、その人のもっている心身の条件が無視されて、何かを押し付けられている状態をいいます。

強制とは本質が踏みにじられて、外的な原因によってその本質が圧倒されている状態のことです。

能動的に生き、自由をつかめ

我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(…)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕という。(第3部定義2)

スピノザによれば、人は自らが原因となって何かをなす時、能動であると言われます。

私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。他人の力をより多く表現している時、私は受動である。

聖書の中に善きサマリア人のたとえ話があります。強盗に襲われた旅人が道端に倒れていました。通りかかった祭司もレビ人も見向きもせず通り過ぎます。通りかかったサマリア人だけでは旅人を助け、宿屋に連れて行って介抱し、お金を渡して宿主に頼みます。

お金を渡す善きサマリア人の行為は、彼の力、人に共感し、義の力を感じることが出来る力を表現しており能動です。

どうすれば自らの力が上手く表現される行為を作り出せるかが、自由であるために一番大切なことです。

そのためには自分がどのようなコナトゥスを持っているかを知らなければなりません。

私たちは完全に能動的になることはできず、少なくてとも若干の受動は残ります。自由についても同様で、完全な自由を達成することはできません。少しでも自由に近づいていくように、その度合いを高めていくことは出来ます。

スピノザ哲学は、完全な自由の実現ではなく、各人が少しずつ自由に近づいていくことを願っています。

「意志教」からの解放と自由

現代は、意志、意志決定といったものが盛んに言われる時代です。①これだけ選択肢があります、②これを選択しましたね、③あなたの意志で選択したのだから、あなたの責任です。という論法です。

意志なるものを信じて疑わない現代社会には「意志教」のような信仰があります。

古代ギリシャには、意志の概念も、意志に相当する言葉もありませんでした。

プラトンには「魂の3区分」という考え方がありますが、その3つは知性・欲望・気概です。

アルコール依存症や薬物依存症は病気ですから、「意志が弱い、なぜ自分で止められないんだ」と責めても、彼らを追い詰めるだけです。

現代社会では、意志がほとんど信仰のように強く信じられています。「意志教」信仰から解放されれば、私たちはもうすこし自由になれるのではないでしょうか。

真理の基準は真理自体である

実に、光が光自身と闇を顕すように、真理は真理自身と虚偽との規範である。(第2部定理43備考)

真理の基準は存在していない。真理の基準を真理の外に設けることはできず、真理そのものが真理の基準とならなければならない。

それは真理が「自分は真理である」と語りかけてくるということです。真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのです。

真理に向き合えば、真理が真理であることが分かる

あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がそのものを認識していることを誰が知り得ようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。(第2部定理43備考)

近代科学の方向性を作ったのは、デカルトです。「我思う、ゆえに我あり」。この命題は「コギト命題」と呼ばれます。

デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得し、反論を封じ込めるものととらえます。

スピノザの考える真理は、他人を説得するものではなく、真理と真理に向き合う人の関係だけが問題です。

真理に向き合えば、真理が真理であることが分かる、というわけです。

真の観念を有する者だけが真の観念の何たるかを知り、真の観念を獲得していなければ、真の観念がどのようなものであるかは分からないのです。

「今自分はこのものについて確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ。」そのように感じられるのは、何かを確実の認識した後のことだとスピノザは言っているのです。

哲学を学ぶことは楽しい

哲学とは概念を創造する営みです。概念の連なりが哲学の歴史です。

哲学研究の1つの役割は、そうやって創造された概念の内実を解明することにあります。

哲学が概念の創造であり、哲学者が概念を創造する者です。

哲学を学ぶ際に一番重要なのは、哲学者が作り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることです。

哲学はみんなのためのものです。スピノザは世の中の人がもっと自由に生きられるようにと願って「エチカ」を書いたのです。

・この記事は100分で名著のNHKテキスト、スピノザ「エチカ」(國分功一郎氏)をベースに書かれています。

記事中の図は管理人が独断と偏見で作成したものです。(スピノザさん、理解が足りなかったらごめんなさい)

・青いボックスで囲まれているのは「エチカ」からの引用で、()に囲まれているのが出典箇所、(…)の部分は省略されている部分です。

・管理人はNHKテキストから引用していますが、基本的には畠中尚志氏訳の岩波文庫版になります。