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台湾のお茶のこと知ってますか:歴史 Part2?

カウコウクン
カウコウクン
台湾のお茶って凍頂烏龍茶とか高山茶が有名だけど、意外と歴史が浅いんだね。

今猿婆
今猿婆
台湾のお茶の歴史を調べてみたら、紅茶や包種茶が古い歴史を持っていたよ。

カウコウクン
カウコウクン
台湾のお茶は日本統治時代に輸出用に開発されたものも多く、日本との関わりも深いんだよ。

今猿婆
今猿婆
日東紅茶は最初は台湾で作られたんだよ。台湾と日本でいろいろなところで関係があるんだね。

台湾お茶の年表

紅茶

1895

日本統治時代~

1903

安平茶業試験場開設

1906

漢口風紅茶を製造し、ロシアに輸出

1908

三井合名が台湾支所を設立

1910

横浜の砂糖王、安部幸兵衛等が日本台湾茶業株式会社を設立し、紅茶専門製造を開始し、順調に輸出を伸ばす

1920代

ロシア革命、インド・スリランカの大量生産により輸出ほぼ停止

1924~

三井合名はイギリス方式の、機械化、大量生産によってコストを低下した形式で、日東紅茶の名で生産量を増やす

1937

三井合名の農林課を分離独立させて、日東拓殖農林株式会社を設立し、茶葉、林業などを引き継ぐ

1937

台湾資本で最大の紅茶工場、台湾紅茶株式会社が設立

1950代

台湾の紅茶、黄金期(輸出全盛)

・台湾のお茶は、凍頂烏龍茶や高山烏龍茶などが有名ですが、紅茶も美味しいものがあります。蜜香紅茶と紅玉紅茶(日月潭)は英国などの紅茶とは少し違ったテイストでなかなか美味しくいただけます。

・台湾における紅茶生産には日本も関わっています。当初紅茶の製造は、輸出して外貨を獲得する目的で始まりました。

・本格的なスタートは、日本統治時代に1903年に安平茶業試験場が開設されたことから始まりました。

・1906年に、安平茶業試験場の初代所長であった藤江勝太郎が漢口風紅茶(紅磚茶)を製造・ロシアへ輸出して好評を博したそうです。

・1910年には、安部幸兵衛(横浜の砂糖王)等が日本台湾茶業株式会社を設立し、初の紅茶専門製造が開始されました。

・この紅磚茶は評判が良く、順調に輸出を伸ばしていましたが、ロシア革命、インドやスリランカなどによる大量生産された安価な紅茶が出回ったことによって、10年程で輸出が下火になりました。

・現在は日本のブランドである「日東紅茶」は台湾の大溪(桃園市)から始まり、三井合名は1908年に台湾支所を設立しました。

・1920年代には、イギリス方式で、機械化、大量生産によるコスト削減を実現するかたちで、台湾の数カ所に工場を作り、「日東紅茶」の名前で生産量を増やしました。

・「日東紅茶」はその大半は輸出され、ロンドンでダージリンにも似た香りと、評判をとったそうです。この頃には茶葉はインドのアッサム種が導入されていました。

・1937年、三井合名はその農林課を独立させ、日東拓殖農林株式会社を設立し、茶業、林業などを引き継ぐことになりました。

・終戦後、日本資本はすべて引き揚げて、台湾にあった日東紅茶の資産はすべて台湾に接収され、「日東紅茶」というブランド名だけが、日本本土に移されました。

・日本統治時代、1937年に台湾資本の台湾紅茶株式会社が設立されました。新竹県の関西という場所に、台湾資本で最大の紅茶工場を経営していました。

・1945年に戦争が終了し、台湾紅茶もいち早く生産を再開し、ヨーロッパなどへ輸出を行いました。1950年代は台湾紅茶の黄金期でしたが、50年代の終わりには、輸出に陰りがみられました。

・1960年代は、為替高、コスト高で輸出競争力が無くなり、その後2000年代に入るまで、台湾紅茶は長いトンネルに入ることになりました。

・現在、台湾のスーパーなどに行くと、「立頓」という表記の台湾式ミルクティー(烏龍ミルクティー等)が売られており、様々な種類があって台湾限定品で甘くて美味しいです。

包種茶

1885頃

福建の安渓(鉄観音の産地)から王水錦、魏静時の2人が台湾にやってきて、花の香りが自然に醸し出される包種茶の開発に成功する

1910代

台湾茶として世界にでていく。輸出先は主に東南アジアだった。

1920代

王水錦、魏静時の技術を継承するため、文山で包種茶製造講習会が開かれていた。

1960代

生産が低迷

1975

新店で包種茶のコンテストが開催される

・包種茶は、烏龍茶と同じ半発酵のお茶で発酵度が低い。現代の製法では、烏龍茶は釜炒りが2回、包種茶は1回という違いがあるそうです。

・烏龍茶と包種茶は基本的な製造工程は同じですが、その細部の作業内容の違いによって、花の香が醸し出させるのが特徴としています。

・包種茶は、1885年頃、福建省の安渓から台湾に来た2人(王水錦と魏静時)が、台北郊外の南港大抗で、包種茶の開発に成功したと言われています。

・日本統治(1895年~)がはじまると、包種茶は東南アジアを中心に輸出されました。特に初期はインドネシア華僑が有力なルートを持っていた、オランダ領インドネシアが輸出の中心でした。

・1910年代に、台湾包種茶が開発された頃から、輸出環境が整ってきた。1920年代には、文山地区において春と秋に、技術を承継するための包種茶製造講習会が開かれ、多くの人が技術を学び、包種茶の生産を伸ばしていきました。

・1950年代には東南アジアへの輸出も盛んだったが、内需も発生していたようです。しかし1960年代以降、輸出が停滞し、紅茶同様に生産が低迷していきます。

・1975年に新店で包種茶コンテストが開催され、内需への転換を図った。コンテストにより包種茶の価格もかなり引き上げられ、生産量も盛り返したようです。

・文山包種茶は高山茶、凍頂烏龍茶と比べると、地味な印象ですが、香りも良く、とても上品で美味しいお茶です。

凍頂烏龍茶

1950-60

凍頂烏龍茶の基礎ができた時代(鹿谷)

1976~

茶葉を売る手法としてコンテストを開催。規模は年々大きくなり、凍頂烏龍茶はスーパーブランドとして認知される

1980後半

阿里山、梨山などの高山茶がブームになり、中海抜(800m)の鹿谷の優位性がなくなった

・台湾のお茶に惹かれたのは、凍頂烏龍茶を飲んだ時にその美味しさに驚いたからです。やはり日本人に一番知られている台湾茶のブランドは凍頂烏龍茶でしょう。

・凍頂烏龍茶の歴史は、『もともと19世紀半ばに林鳳池という挙人(科挙地方試験合格者)が大陸から伝えられた茶の苗を持ちこみ、台湾の凍頂山で栽培したことがはじまりとされる』と書かれていることが多いですが、実はこれが史実かどうかは不明で、真偽のほどは明らかではありません。

・凍頂烏龍茶の産地である鹿谷に、青心烏龍茶の品種が植えられ、茶の生産が広がっていったのは日本統治の終了後と言われています。

・1950~60年代、青心烏龍茶の茶葉を使い、福建省安渓(あんけい)式の製法が取り入れられて、凍頂烏龍茶の基礎ができました。

・1970年頃、これまで台湾茶業を支えてきた紅茶などの輸出が低迷し、これまでの輸出主流ではなく、台湾人が好きなお茶が模索されるようになりました。

・鹿谷では、何とか茶葉を売る方法を探し、品評会(コンテスト)を開催することにしました。このコンテストは消費者を対象にして、茶葉をアピールすることが目的でした。入賞した茶葉を小分けにして売り出したそうです。

・最初は上手くいくかどうか分かりませんでしたが、コンテストの規模は年々大きくなり、凍頂烏龍茶はスーパーブランドとして認知されていきました。

・しかし1980年代後半から、高山茶(1000m以上)がブームになり、中海抜(800m)であった鹿谷(凍頂烏龍茶)の優位性はなくなってしまいました。阿里山烏龍茶、梨山烏龍茶などは高山茶といわれ、凍頂烏龍茶とは区別されています。

・しかし、鹿谷で培われた製茶技術、茶師のレベルは高く、杉林渓などの高地から調達した茶葉を使い、鹿谷で製茶、焙煎などを行っています。

高山茶

1979

鹿谷より茶業者が茶苗を持ち込み、茶業が始まる。品種は高山茶向きの台茶6号(梅山瑞里)

1990頃

コンテストでトップをとる(梅山瑞里)

1981

茶畑が作られ始める(阿里山)

1969~

茶樹の試植を開始(大禹嶺)

1976

青心烏龍が良い結果を生み、高山茶の生産が一斉に始まる(大禹嶺)

1982頃

最初に茶樹が植えられる(杉林渓)

1990

高山茶の大量生産が始まる(杉林渓)

・高山茶の定義は「海抜1,000m以上の茶葉を使って作られた部分発酵茶」と言われています。

・「凍頂烏龍茶」と「高山茶」ははっきりと区別されていますが、その定義はあまり明確ではないようです。

・高山茶の命名は、凍頂烏龍茶が800m程度で作られていたので、それより高いところで作られたお茶を意味するために「高山茶」と呼んだということのようです。

・標高800mを超えると、空気や土壌など自然環境が大きく変わるため、採れる茶葉の質も違ってくるそうです。凍頂烏龍茶の製法がさらに高い山に持ち込まれ、栽培される茶葉の質に合わせて、その製法が変化していったと考えられるが、正確なことは判明していません。

・高山茶はいろいろな場所で作られていますが、その1つが梅山瑞里(台中)で、1979年に鹿谷より茶業者が苗(台茶6号)を持ち込んで、茶業が始まりました。

・1990年前後にはコンテストでトップとなり、1990年代半ばには高い取引価格となっていました。しかし、1999年の地震の影響もあって、衰退していきました。

・高山茶の中でも、阿里山烏龍茶は有名ですが、標高1,800m地帯で栽培されています。阿里山で茶葉の栽培が始まったのは1981年頃だそうです。阿里山に公道が通ったことも高山茶栽培の後押しになりました。

・大禹嶺においても梅山と同じ頃、1976年頃から茶葉の栽培が軌道に乗り出して、青心烏龍が良い結果を生みました。1979年に鹿谷コンテストでトップを取り、生産が進みました。しかし、1980年代前半は、凍頂烏龍茶の人気があり、高山茶はコストが高かったため、売るのが大変だったそうです。

・大禹嶺は標高2,300~2,600mの山の斜面に茶樹が植えられており、高山茶の中でも台湾の最も高地で栽培されたお茶と言われ非常に高価となっています。

・杉林渓は標高1,700mで、1982年頃に茶樹が植えられはじめ、1990年前後に高山茶の大量生産が始まり、1995年頃からの10年程度が最盛期だったということです。ここは土壌が良いので、良質の茶葉が採れて、安定した値段となっています。

鉄観音茶

1700年代

鉄観音という品種が生まれ、その葉を使って発酵茶が作られた。その経緯は諸説ある。(福建省安渓県西堀)

1895頃

張迺妙が原籍のある安渓に旅して、鉄観音茶樹を持ち帰って植えたと言われている。(木柵)

1935~

張迺妙は定年退職後、鉄観音作りに励む(文山茶業㈱に茶師として勤務、現役時代に主に作っていたのは包種茶)

1960頃

厦門が茶葉の輸出基地として栄える

1970後半

厦門から日本へ烏龍茶の輸出が始まる

・18世紀ころ、鉄観音という品種が生まれ、その茶葉を使って発酵茶が作られたということは事実であるようです。

・その発祥の謂れは2説あり、1つは1920年頃に、西坪鎮松岩村の仏教への信仰が厚い茶農の魏蔭が、夢の中で観音からのお告げを受けて、岩の割れ目から茶樹を発見しました。これを持ち帰り育て、各地に広めました。お茶は鉄のように黒かったので、「鉄観音」と名づけた、というものです。

・もう1つは、1936年に福建省の南山という場所を歩いていた時に見つけた1本の茶樹を持ち帰り育てました。この茶が素晴らしい香りを放ち、北京に行く際に宮廷に献上したところ、皇帝の乾隆から「南岩鉄観音」と命名された、というものです。どちらも史実としては、確実なものではないようです。

・一方、台湾の鉄観音茶の発祥の地は木柵であるようです。1875年に生まれた張迺妙が、1985年頃に原籍のある安渓に旅して、鉄観音茶樹を持ち帰って植えたと言われています。

・張迺妙は文山茶業株式会社に茶師として勤務しており、現役時代は主に包種茶を作っていました。

・彼が本格的に鉄観音茶を作り始めたのは、1935年の定年退職後で、栽培、製法の研究を行いました。

・しかし戦争が始まり、茶畑は食料確保のための雑穀やイモ畑に変えられてしまったそうです。終戦後、新しい茶畑を開墾して新たに茶樹を植えたが、その産量は少なかったようです。

・1970年後半、厦門から日本への烏龍茶の輸出が始まり、あっという間に普及しました。伊藤園やサントリーの烏龍茶が日本人によく飲まれるようになり、鉄観音茶は有名になりました。

おまけ:台湾のお茶菓子について

・台湾のお茶に台湾のお菓子ははずせません。逆もまたしかり、台湾のお菓子を食べるときは、台湾のお茶を飲まないと、なんだか物足りない気分になります。

・お菓子は数限りなくあって、それぞれお勧めの品があると思いますが、個人的なお勧めをご紹介します。

パイナップルケーキ:鳳梨酥

・ザ・定番のパイナップルケーキです。いろいろなお店のパイナップルケーキがあって、それぞれに特色があります。

・それぞれのブランドがお店を構えています。日本にも支店があるサニーヒルズを台北で購入できる場所は、台北101のショッピングセンター、台北店(松山空港からバスかタクシーで行けます)、桃園空港の3カ所だけです(2023年6月時点)。

・ホテルのベーカリーで作っているパイナップルケーキはそれぞれのホテル内のみで買うことができます。他の有名なパイナップルケーキも直接お店まで行く必要があり、買い回るのは意外と大変です。

・一般的に、パイナップルケーキは「鳳梨酥」といいますが、パイナップル餡100%のものは「土鳳梨酥」と呼ばれています。パイナップル餡100%ではないものは冬瓜が入っています。どちらが好きかというのは、好みになります。パイナップル餡100%は相対的に酸味が強い感じです。

・個人的なお勧めは、写真左から、定番のサニーヒルズ(微熱山丘 Sunny Hills)、The Nine烘焙坊(大倉久和大飯店)、皇族鳳梨酥 ROYAL FAMILYです。

・サニーヒルズのものは、高級卵とエシレバターを使用したサクサク生地がとっても美味しく、パイナップル餡は繊維がしっかりした酸味のある味です。クッキー生地厚めで、とても美味しいです(日本10個入、3,500円、台湾10個入、450元)。

・大倉(ホテルオークラ)のものは、パッケージがとっても綺麗で、箱も重厚感があります。サニーヒルズもずっしりしていますが、こちらもかなり重さがあります。芳醇なバターの風味が香る生地に包まれているのは、台湾金鑚17号という糖度の高いパイナップル餡です。サニーヒルズよりも少し甘く感じるかもしれません。(台湾12個入、500元)。

・皇族のものは、スーパー等で買うことができます。サニーヒルズ、オークラのものは賞味期限が3週間程度と短いですが、皇族は半年位の賞味期限があります。お値段が上記2つの10分の1程度で、クッキー生地も美味しく、日持ちがするのでお勧めです(台湾8個入、約60元)。

ヌガー:牛軋糖

・台湾で最初に大好きになったのは、ヌガー(牛軋糖)です。

・台湾のヌガー(牛軋糖)は日本のヌガーとは別物です。日本国内では売っていません。ただし歯にくっつくので、冷蔵庫で冷やして、包丁で小さく切って食べるのがお勧めです。

・有名なのは、糖村:Sugar&Spice、オークラプレステージ台北のベーカリーThe Nine 烘焙坊、ホテルロイヤルニッコー台北のベーカリー、ロイヤルベーカリーなどがあります。

・ヌガー(牛軋糖)はだいたいナッツ(マカデミアナッツ、ピーナッツなど)が入っていて、有名店のものはナッツ多めのタイプが多いです。

・個人的にはナッツ類少なめのタイプが好きで。一番気にいっているのは、台北駅地下の屋台のようなところで売っているヌガーですが、カルフールやJASONSで買うことのできる「徐記老大房」もお勧めです。カルフールで台湾の地元の方が、これが美味しいよ、と教えてくれました。

・前回行ったときは「徐記老大房」のヌガーが見つからず、写真のヌガーを購入しました。

ドライフルーツ

・ドライフルーツはマンゴーやパイナップルだけではなく、いろいろな種類があります。グアバ、サンザシ、モモ、イチゴ、トマト、バナナ、キウイ、レモン、オレンジ、キンカン、ブドウ、スターフルーツ、ドラゴンフルーツなどがあります。

・写真のものはお茶のお取り寄せの時に一緒に購入したパック入りのものですが、量り売りしているお店も多く、一斤600グラム、半斤が300グラムです。一斤はかなり量が多いので、お試しに買ってみる場合は半斤がお勧めです。半斤でもそれなりにボリュームがあります。お店によってはもっと少ない量も売ってくれます。

・気をつけたいのは、ドライフルーツはかなりカロリーが高いことです。食べ過ぎ注意です。

・お土産物店でもドライフルーツを買うことができますが、出来れば油化街で買うのがお勧めです。油化街にはドライフルーツやドライ野菜などを売っている食材店が沢山あります

・個人的に気に入っているのは油化街の百勝堂薬行で、いつもこちらで購入しています。試食もさせてくれて、ドライトマトが特に美味しいです。

花生酥:ピーナッツ菓子

・台湾の澎湖島の名産品で、サクサクした食感で、ピーナツバターを固めたようなお菓子です。これまでに食べたことのない、ちょっとクセになる美味しさです。〈正義餅行〉と〈正一食品〉が有名なブランドです。

・花生酥は澎湖島のお菓子なので、台北では売っているお店はほとんどなく、入手困難です。運が良ければ油化街などで購入することができます。値段は高くなりますが、日本からのお取り寄せの方が買い易いです。

・台湾では他にもピーナッツを使ったお菓子がいろいろあります。台湾式ハンバーガーにピーナッツ粉をかけるととても美味です。新貴派 巧克力花生口味(ウエハースチョコパイ チョコ・ピーナッツ味)はどこにでも売っている美味しいお菓子です。

南棗核桃:ナツメクルミキャンディー

・「南棗核桃糕」は台湾では定番のお菓子で、煮詰めたナツメをペースト状にして、クルミを混ぜたキャンディーです。食感はヌガーのように柔らかく少し「ぷにゅ」とした食感で、口の中に入れるとあっという間に溶けて無くなってしまいます。甘いナツメと香ばしいクルミがよく合って、不思議な美味しさです。このお菓子は日本のネット販売で見つけました。

・他のお菓子もそうですが、台湾のお菓子の魅力は「未体験ゾーンの美味しさ」かもしれません。

番外編:意外な盲点

・台湾で目当てのお菓子を買い回るのはとても大変です。パイナップルケーキを求めて1時間以上歩き回ったり、ピーナッツのお菓子が欲しくって3時間以上探し回ったこともあります。

・台湾で買うのが大変なものは、意外と日本からネットで買うのがお勧めです。いろいろな美味しいお菓子を買いたいときは、少し高くなってしまいますが、自宅からの注文も選択肢の1つです。

参考資料
お茶の歴史については、公益財団法人日本台湾交流協会の台湾情報誌『交流』に掲載された、須賀 努氏の記事(2017/4~2021/2)を主に参考にさせていただきました。
⇒ 日本台湾交流協会のホームページ